人 物 紹 介

創設者 田中大祐翁とは

  讃岐琴弾山麗の観音寺町寺町に染物業田中馬次・コノの三男として出生。幼少の頃から既に人並み以上に記憶力が強く、研究心が深かった。10歳の時、近所の理髪店にあった黒水晶を見て驚異の目を輝かし、鉱物への探求心を強くした。
  小学校卒業後、大阪に出て新式の煙火製造技術を習得し西条へと移住。ここを永住の地と定める。本業のかたわら、西日本各地の山野を跋渉し全く名利を顧みず、清貧の生活に甘んじながら、鉱物・動物の採集に没頭した。
  明治24年、西条の市之川鉱山で毛状アンチモニーを発見したことは学会に一大センセーションを巻き起こす。田中は博物館知識の普及の為、自費で移動博物館を開き、或は講師となって直接指導に当たるなど、教育文化の振興と奉仕に献身した。実施した学校は西条市はもとより、東中予の多くの学校の他、新聞社・役場である。昭和26年に60有余年にわたり収集した標本・資料を西条市に寄贈した。
  昭和27年に県教育文化賞、昭和29年に藍綬褒章を受章。また、昭和28年に当館の名誉館長となる。
昭和31年85歳にて生涯を閉じる。(西條人物列伝より引用)

服部久吉翁とは

 神拝古屋敷に父繁太郎・母タカの4男として出生。神拝尋常高等小学校を卒業後上神拝の松山監獄署西条分監(現西条刑務所)に給仕として働く。真面目で勤勉な態度が評価され、当時囚人担当の医師三並知夫の勧めで東京の貿易商高田商会に入る。昼は働き夜は夜学の大学に通い辛苦を重ね勉学に励む。その後独立、ポンプ関係の会社を設立し順調に業績をあげる。同郷人である日野泉之助とは交友深く良き相談相手であったという。
  関東大震災で甚大な被害を受けつつも、企業は軌道に乗り事業は成功。傍ら郷土愛の熱意に、甥の服部益美が各方面と仲介の労をとり、神拝小学校の音楽堂、昭和28年には郷土博物館と刀剣・槍穂、又西条高校の運動場の一部百坪と多くの寄贈をし西条の教育文化の興隆に多大の貢献をした。昭和55年2月3日83歳の生涯を閉じる。
(西條人物列伝より引用)※胸像は伊藤五百亀作

浦辺鎮太郎氏について

 

 

 浦辺鎮太郎氏(1909~1991)は、現在の倉敷市に生まれ育ち、京都帝国大学の建築科を経て1934年、倉敷絹織(現クラレ)に入社。30年に亘り営繕技師として工場や従業員アパート、福利厚生施設の建設等で手腕を発揮します。この間、同い年の社長大原総一郎の理解を得て、倉敷のまちづくりを主導し、また社外においても優れた建築作品を残します。 

当館の近隣に立地する西条栄光教会(登録有形文化財)は、在職時代1951年42歳の時の作品です。 

 1964年55歳で営繕部長を最後に当時の倉敷レイヨンを退社し、(株)倉敷建築事務所を拠点として中国、四国は元より関西、中部、関東を舞台に多くの作品を世に送り出しました。 

 西鉄グランドホテル、倉敷市民会館、倉敷アイビースクエア、千里阪急ホテル、倉敷市庁舎、倉敷中央病院、日本女子大成瀬記念館、大佛次郎記念館、横浜開港記念館、神奈川近代文学館など一連の作品群です。当館も1967年竣工、浦辺58歳、まさに円熟期の作品です。 

浦辺が建築を志した時代、W・グロピウス(1883-1969)や、ル・コルビュジェ(1887―1965)が先導する近代建築運動が大きな影響力をもっていました。近代建築の主要な素材は、工業製品である鉄とコンクリートとガラスです。 

 この運動の影響を受けて建築家としての歩みを始めた浦辺は、やがてF・L・ライト(1867-1959)の作風をオランダの地方都市ヒルヴェルムスの歴史風土と調和させたW・M・デュドック(1884-1974)の仕事に出会い傾倒します。ここから倉敷のまちづくりへの姿勢が定まり、近代建築に見られない素材の色や質感、装飾を取り入れ、親しみやすい人間中心主義とも言える浦辺建築が生まれます。民芸や骨董を趣味とした浦辺ならではの感性、趣向を、当館で存分に味わっていただければ幸いです。